最近、輪廻転生について考えました。
自分の体調が悪いことに端を発して、死を意識するようになったからだと思います。
もくじ
輪廻転生の流れ
日本における輪廻転生という概念は仏教から来ているという風に理解しているので、それを調べてみると、その前から輪廻転生という概念は存在していた様です。
ざっくりお伝えすると、バラモン教→ヒンドゥー教→仏教という流れで、その源流はヒンドゥー教の前身である、バラモン教の最終期に出てきた概念で、仏教においては輪廻転生を前提とした概念になっていったと言われています。
日本では5世紀〜6世紀(西暦400年〜600年)に持ち込まれ、発展していきました。
諸説あるようなので、ざっくり200年も幅があります。
森林の思考・砂漠の思考
今度は違った視点で、地理的なところを考えたいと思います。
鈴木秀雄著『森林の思考・砂漠の思考』という興味深い考え方があり、自分もこの考え方には大きく賛同する部分があります。
yuku kawa にてこの本の内容についての概要と考察がありまして、そちらを参考に読んで頂ければ理解は早く深まると思います。
『森林の思考・砂漠の思考』の内容として、西洋の文化と東洋の文化を[砂漠の思考]と[森林の思考]という風に分類しています。
森林的思考・砂漠的思考としていちばん納得しやすいのは、森林(とくに照葉樹林のような見通しの悪い森林)では地上に視点を置く発想が育ち、砂漠では広域を上から鳥瞰するような発想が育つということである。
yuku kawa
次に、宗教の違いがある。本書の議論によれば、人間は狩猟・採集の時代には、呪術的思考をした。つまり、人が何かをすればある一定のことが起こると考えて行動した。農耕・牧畜を始めるころから、超越者である神を考えるようになってきた。森林では多数の神がいると思う発想が育つ(あるいは呪術的発想が残る)が、砂漠では主神がいる、さらには神は唯一であるという発想が育ちやすい。
yuku kawa
とても端的にまとめた表現だと思います。
そういう意味では、西洋の考え方では初めがあれば終わりがあって、人は死んだら天国やエデンの園(ユダヤ教の天国)、ヴァルハラ(北欧神話の天国)に行って永遠に幸せに生きる(終わる)のとは反対に、アジアでは終わりはこなくて、その先がある、死後また現世に転生しそれを繰り返しながら修行し最終最後にその輪廻から解脱(脱出)できるってな考え方です。
将棋とチェスの違いでもわかるように、将棋はとった駒を自軍で使えますが、チェスは取られたら終わり。ゲームひとつとってもすごく象徴的に違っています。
人の世代のターム
さて、これまた視点を変えて、人生の世代タームを考えてみたいと思います。
1タームは生まれてから子供を産むまでと考えます。
基本的に人が子供を産むタームを20年と仮定します。
正直、最近は30歳でも40歳でも子供を産める様になってきていると思いますが、今からたった500年前は人生50年と言われていて、本当はもっと短くしたい位なのですが、わかりやすく考えるための考え方として20年と捉えてください。
また、人が死ぬ年齢は考慮しません。なぜなら世代を考えたいので、20歳で子を成したら、その子が20歳で子を成すと考えていくにあたり、じいちゃんばあちゃん、ひいじいちゃんひいばあちゃんがいてもいなくて、世代は確実に受け継がれていますので、考慮からは外せます。
で、類人猿から今の人類になってきたのが1万年前位ですから、10,000年を20年で割ると人類誕生から今の世代になるのにざっくり500世代となります。
もちろん、早く子供を成してきた人類も入れば、年を重ねてから子を成す方もいらっしゃったとは思いますが、思考実験から仮説ですのでざっくりでご理解ください。
前世と今世
で、これは事実として捉えられるかは微妙な所ですが、稀に前世の記憶を持つ方がいらっしゃるじゃないですか。
中には前世があることでしか説明しようがない事柄もいくつか事実として残っていますよね。
もちろん賛否両論あるとは思いますが、過去のこれらの出来事を全て一個一個反証して行くのは非現実的だと考えて、このような出来事は世界中で稀にあるとします。
とはいえ、全員にその記憶があるわけではないので、記憶がない人は忘れている。
もしくは、思考ができる前世でない(例えば動物とか植物)と仮定します。
更に今生きている人生において人と人との「縁」というものがあり、それは前世でもそのつながりがあるというのが仏教における考え方ですが、それも「ある」と考えます。
ちなみに、縁は今世では親子だけど前世では兄弟だとか、前世で親友だったけど今世で恋人だとか、それが縁となるわけですが、そういうつながりもあると考えるわけです。
これを考えたときに、500世代で足りる?
という疑問に至りました。
通常の輪廻転生
通常の輪廻転生は、国というか生まれてくる場所は関係ありません。
そして、今自分が死んだら来世は少なくとも100年くらい後になるんじゃないかと考えます。
例えば自分が子を成して50歳まで生きます。
20歳で子を成す前提ですから、世代言えば3世代中に亡くなるわけです。
で、亡くなってすぐに生まれ直すのは普通に考えたら難しいのです。
仏教でも死んだ後川を渡ったり様々な裁判やら行事がありますので、とんでもなく早ければ数年、早くても100年、下手すると1000年〜4000年とかはかかると思います。
(日本の地獄とか天国のイメージで考えています)
例えば、10,000年前の最初の人類だった人が、そのまま順調にいけば50歳、つまり9950年前で亡くなって、めちゃくちゃ運良く2年後の9948年前に2回目の生を受ける。
で、2回目も50年生きるとして9898年まで生き、今回は普通に100年かかっちゃいました。
3回目は9798年前から50年生きて9748年前まで生きる。
その時だいぶかかっちゃって4000年かかったので4回目は5748年前(紀元前3,726年)に生まれる。
その頃日本は縄文後期、シュメール文明やインダス文明、古代エジプトなんかが盛り上がっています。
ここまでくると後一回失敗して4000年とかかかっちゃうと、5回目の生はもう最近(って言っても1750年前なので西暦272年。卑弥呼の時代239年の2世代後)で、めちゃくちゃ最初から生まれ変わってて、10,000年長いって思ってたのに、思ったほどたくさん生まれ変われないわけです。
これはかなり極端な例ですが、通常の輪廻転生の考え方だと有限の10,000年という枠があり、動植物を含めた魂の総数があるという考え方をした場合、人口増加人口減少などをうまく説明できません。
無意識に前提としていること
となると現状では何となく輪廻転生って厳しくない?なんて考えられなくもないですが、ひとつ無意識に前提にしていることがあります。
それは「時間」です。
この時間が過去から現在に流れていて、輪廻転生がその大前提のルールに縛られるという風に考えていますが、この時間が過去から現在、そして未来に流れているのは、我々が生きている世界では争うことができない法則ですが、死後の世界というか生まれる前の世界、魂の世界では確定事項はありません。
輪廻転生は「ある」という前提で考えていますが、基本は誰も覚えていないし証明のしようもありません(だから、無いという証明もできませんけど)。
死後の世界に輪廻転生があるかどうかでも議論を呼ぶレベルなのに、まして況んや死後の魂の世界に「時間」という概念があるかどうかなんて、神のみぞ知る知識であります。
ということで、時間という概念が死後の魂の世界には「無い」という前提だとどうなるでしょうか?
時空を超えた縁
すると、10,000年という時間的に閉ざされた世界だと説明が難しい概念ですが、時空を超えられるとなると、これは話が変わってきます。
例えば、自分の子ども西暦2022年段階で3歳だったとして、西暦2100の78歳で天寿を全うします。で、その子が次の生(来世)では1948年に自分の母親として生まれるというケースもあり得るわけです。時間が一方通行ではないからです。
そうすると、今は自分の子(1期)どもだけど、その魂は自分の母(2期)として生きる訳ですから、時間を遡っていることになり、自分が育てた子に自分が育てられるという風な複雑に絡み合いながら時空を超えて縁がつながっていくイメージとなります。
生まれてからは時間の制約は確実に存在しますが、魂の世界ではわからないですからね。
つまり何が言いたいかというと、動植物を含めて絶対的な魂の総数は増えたり減ったりするのではなくて、過去にも未来にも行ったり来たりしていて、その中で生まれ変わり続けていると考えられるようになります。
もう少し深く考えてみると
魂は増えたり減ったりはしないし、ずっと過去と未来とを行ったり来たりしながら、母になり、子になり、恋人になり、父になり、親友になり、妻になり、日本人になり、アフリカ人になり、ヨーロッパ人になり、エジプト人になりながら、色々な人縁を繋いで行っているのでは無いかと考えています。
となると、いくつか疑問が出てきます。
植物や動物にはならないのか?
今の我々(の魂)が脳の発達を進化に選ばなかった(知性なき)動物にもなり得るのではないか。
これに関しては、自分的には動物や植物にはならないと考えています。
知的生命体になった魂は、良くも悪くもいっぱい考え、悩み、そのことで苦労をし、それでも生きて行く訳です。
そんな苦労、つまり研鑽を積んだ魂が、知性を落とした肉体として生を受けるとはどうしても思えない。もちろん、よっぽどのことがあってそうせざるを得ない何かがあったのであればそういうのもあるかもしれませんが、人間の後に普通に牛として草を食むとは思えないんですよね。
もちろん「ならない!」って言い切れるほど知る由も明確な理由もないのですが、草花にも動物にも魂が宿るとして、知性の向上でランク分けがされていると考えています。
知性が高くなればなるほど、苦しさが増えると思うんです。
苦しさが増えるのは、その頭脳があるからだし、魂の研鑽という意味では苦労をすることはプラスであると捉えられます。
植物はそこまで何かを考えるわけではないでしょうが、感じたりすることでレベルを上げ、レベルが上がれば動物になっていく。
動物は生きるため食べるため、殺されないために本能の範囲で考え思考しレベルを上げ、レベルが上がれば知能がより高い動物になっていく。
知能がより高い動物はレベルアップを繰り返し、最終的には今の人間へとレベルを上げていく。
だとしたら、最初は草花、レベルアップして動物、さらにレベルアップして人間、てな具合でランクが分かれていて、上がったレベルは下げられないのだと今の所の自分の落ち着いている考えです。
宇宙人(地球外知的生命体)にはならないのか?
これは、これも勿論あくまで仮説なのですが、何となくですが縛りがあるんじゃないかな?って感じているんです。
広い宇宙には、肉体も必要としない位の知性が進み精神体だけまで進化した種もあるかもしれませんし、逆に地球の昔みたいに知性ではなく肉体をどんどん大きく進化させた恐竜みたいな種もいるかもしれません。
で、それらが相互に行き交うのは、イメージができないでいます。
前世の記憶がある人が稀にいますが、その人たちも前世が宇宙人だったというのは、聞いたことがありません。
それと、何となく大いなる意志というか、人間も地球の一部みたいな考え方があるように、地球号を選んだ魂たちの集団が、地球を中心に輪廻転生を繰り返し、地球を中心とした種が皆で喧嘩したり、戦争したり、殺し合いながらも、どこかで繋がっている感じを自分は感じていて、そんな感じを実は皆が持っていて、そういう「[地球組]の魂は他の星の組には転生しない」みたいな縛りというか繋がりというかがあるのではないかと考えています。
でも、[地球組]が正解だった場合、前世が恐竜だった場合もあるわけです。これはどうなの?ってなると思いますが、これに関しては、先ほどの知性レベルの話でレベルが上がったら下げられないのと同じ様に、植物だった頃の記憶は知性がないので保持できません。で、動物だったとしてもやはり知性がないので記憶を保持できません。恐竜も記憶は保持できませんので、そうだったとしてもその記憶を持って人間としての生は生きられないと思います。
ただ、かつての生で自分が恐竜だった魂が「恐竜を好き」という感情は大いに抱くと思われます。子どもたちは人間の知識が成熟し切っていない肉体を得て間もない状態ですから、かつての生として刻まれている親近感で、虫が好きだったり恐竜が好きだったりというのは、何となく自然な感じがします。
ちなみに、既視感みたいなものは、かなり容易に説明がつくようになります。
この街、この景色どこかで見た気がする。
絶対初めて訪れた国なのに、なんか来たことがある気がする。
もしかしたら、前世のどこかで住んでいたり、縁が深い場所だったのかもしれません。
最後に
一生わからないことを前提に前提を重ねた推論ですが、この時空を超えた輪廻転生を考えたときに、なぜか涙が出ました。
自分的にはかなり確信に近い結論なのは、何だかわからないけど、この涙がそうさせていると思います。
そしてその後、自分が大学生の頃に死んだ母のことが思い浮かび、また涙が出ました。
もしかすると、そう思いたい、そう思うことで心が安らかでいられる、だから時空を超えた輪廻転生があるって思ったのかもしれませんが、なぜかやっぱりこうであると今の所は確信をしています。
最後がフワッとしてしまいましたが、結果、これを証明することは誰もできませんので、一つの思考実験と仮説と捉えていただければ幸いです。
揚りが唐ございました!
参考資料
- 『森林の思考・砂漠の思考』鈴木 秀夫 (NHKブックス312 1978)
- yuku kawa – dokusyo memo / memoranda on books / 読書メモ